はじめに
 私たちが暮らすこの時代は、マタイによる福音書24章でイエス様が弟子たちに語られたように、終わりの時代に少しずつ近づいているようです。

24:1 イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。
24:2 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
24:3 またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。
24:4 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
24:6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
24:14 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。


 まだ先のことだろうからと、のんびりしてはいられません。続くマタイ25章のたとえの中で次のように言われています。

25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
25:2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
25:3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
25:4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
25:5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。

 待っていたけれど遅れるものだから、居眠りをして寝てしまったのは、彼ら全員でした。その中の五人は備えがあって、祝宴に参加できましたが、備えがないため部屋に入ることさえできない者もありました。

 

(ようやく序論…)

テサロニケ人への手紙第一の執筆目的
 パウロは信仰をもって間もない、生まれたてのテサロニケ教会に集う信徒に向け、どのように信仰生活を続けたらよいか、またその信仰を維持しながらどのように終末を迎えるべきか(終末に備えるべきか)この手紙を通して教えています。

1:1 パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
1:2 わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し、
1:3 あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。
1:4 神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。
1:5 なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。
1:6 そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、
1:7 こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。(下線いずれも筆者)

 

テサロニケ人への手紙第一が書かれた背景 使徒行伝17:1-9

17:1 一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。
17:2 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、
17:3 キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。
17:4 ある人たちは納得がいって、パウロとシラスにしたがった。その中には、信心深いギリシヤ人が多数あり、貴婦人たちも少なくなかった。(下線筆者)

17:5 ところが、ユダヤ人たちは、それをねたんで、町をぶらついているならず者らを集めて暴動を起し、町を騒がせた。それからヤソンの家を襲い、ふたりを民衆の前にひっぱり出そうと、しきりに捜した。
17:6 しかし、ふたりが見つからないので、ヤソンと兄弟たち数人を、市の当局者のところに引きずって行き、叫んで言った、「天下をかき回してきたこの人たちが、ここにもはいり込んでいます。
17:7 その人たちをヤソンが自分の家に迎え入れました。この連中は、みなカイザルの詔勅にそむいて行動し、イエスという別の王がいるなどと言っています」。
17:8 これを聞いて、群衆と市の当局者は不安に感じた。
17:9 そして、ヤソンやほかの者たちから、保証金を取った上、彼らを釈放した。
17:10 そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。

 パウロ一行は衝突を避けるためベレヤへ移動しましたが、残してきたテサロニケ信徒たちはそのまま放っておいたらどうなってしまうかという親心が芽生えていた様子です。(Ⅰテサロニケ2:8では自分の命までも与えたいと思うほどでした。)こうしたことが背景にあり、この手紙が書かれました。

 

(ようやく本論…)
 テサロニケの人々が救いに与るためには、神の選び(4節)がありました。この場面における神の選びは、テサロニケの信徒たちが初穂となって救いに与り、当時、受け入れなかった人々に証言したり、伝道に用いられていくため、ひいては他地域の教会に良い影響をもたらすための選びでした。『やがてマケドニヤまたアカヤのすべての信者の模範となるに至った。(7節)』と書いてある通りです。


 伝える側に焦点を当てて御言葉を振り返りますと、パウロの言葉によると、パウロがテサロニケの人々に伝えることができたのは、(上よりの)力、聖霊がパウロ一行を強め、励まし、強い確信を得させた。(5節)
 受け取る人々には聞く耳を与え、柔らかな心を備えてくださった。(使徒17:4) 多くの患難、ひどい苦しみ(新共同訳)を経験し、通らされたけれども、聖霊による喜びをもって、御言葉を受け入れ、わたしたち(パウロたち)に倣う者、そればかりか主に倣う者となった。(6節)

 福音宣教は、聖霊なる神が伝える側、受け入れる側双方に働きかける神の宣教のわざです。

 

黙想のための問い
 神に信頼している人々が、どうして迫害や苦しみに遭うのか思い巡らしてみましょう。