テサロニケは、現在のギリシャの都市のひとつで、宣教当時はローマ帝国に属していました。イスラエルから地中海を左手に見ながら、陸続きに北上するとトルコ。エーゲ海に沿って西に進みブルガリア、その先にマケドニア。湾近くにテサロニケの町があり、そこから折れ曲がるように南下するとギリシャとなります。(地図帳があると便利です)

 

前回のおさらい
 テサロニケの人々が救われるためには、
1章4節、神の選びがあった
5節、(上からの)力、聖霊(聖霊なる神が与える)確信があった
6節(テサロニケの人々も多くの患難、ひどい苦しみを通らされたが)
 聖霊による喜びをもって、御言葉を受け入れ、わたしたち(パウロ一行)と主とに倣う者となった。
7節、マケドニヤとアカヤならびにすべての信者の模範となった。

今回はテサロニケ第一1:8-10を中心に味わいます。

1:8 すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。
1:9 わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。(下線いずれも筆者)


 Ⅰテサロニケ1章8節、「主の言葉はあなたがたから出て、マケドニヤとアカヤ地方に響き渡っている。そればかりではなく、あなたがたの信仰が言い広められた。」
 先に触れておきますと、10節、「彼ら自身が言い広めている」、その"彼ら"とはマケドニヤとアカヤ地方の人々のことで、彼らがテサロニケの人々の信仰について言い広めました。

 1章9節、「わたしたち(パウロ一行)が、どんなにしてあなたがたの所(テサロニケ)にはいって行ったか」について、使徒行伝17章冒頭を参照します。
17:1 一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。
17:2 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり聖書に基いて彼らと論じ
17:3 キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。(下線いずれも筆者)

・テサロニケにあったユダヤ人の会堂で3つの安息日にわたり、
・聖書に基づいて、キリストの死、そして復活を宣べ伝えた。
つまり、ナザレのイエスこそキリスト(救い主)であることを説き明かした。


 Ⅰテサロニケ1章9節後半、「あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて、神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになったか。」ということですが、ローマ帝国の都市、テサロニケにあったユダヤ人会堂を想像しましょう。その地域のことですから、人々はたくさんある神々の中から、それでも信頼できそうな神を選んで、ユダヤ人会堂に集まり始めたのではないでしょうか。神を求める方向としては悪くないように感じられます。

偶像… 人の手で見える形に作った神の像。神でないもの(こと)を神とすることで、それを拝んだり、第一とすることが偶像礼拝となります。ですから人物やその考えを第一としたり、神より高く価値があるとする者も、偶像を拝んでいることになります。

 偶像を拝んだり、仕えているままで10節、"きたるべき神の怒り"を免れることはできないでしょう。

 Ⅰテサロニケ1章9節後半、「どんなにして偶像を捨てて(口語訳)」、「離れて(新共同訳)」ということは、パウロ一行によって信仰に導かれたテサロニケの人々も、ユダヤ人会堂で出会った頃には、まだ習慣として、偶像を拝んだり、手にすることがあったと思われます。
 パウロたちが使徒17:2,3にて、「その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また『わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである』とのことを、説明もし論証もした。」 つまりナザレのイエスが十字架にかかって死んだのは、神に背を向け、神が喜ばれない歩み方をしていた私たちの全ての罪を背負って罰を受けられたのだ、この方こそ世の罪を取り除く神の小羊キリスト(救い主)である。この方は死んで終わりではない、三日目に栄光の姿によみがえらされたのだと、はっきり伝えたので、それらの言葉は彼らの心に触れ、彼らは偶像を離れて神に立ち返り、(今までの生き方を捨て)生けるまことの神に仕えるようになった。

 私たち自身のこととして振り返ってみても、自分の努力によって偶像を捨てたり、離れることが潔くできたかというと、完全に取り除くことは難しかったのではないでしょうか。そこにはやはり聖霊なる神の働きがありました。

 Ⅰテサロニケ1:10、『そしてよみがえった神の御子、救い出して下さったイエス様が、天から降ってこられるのを待つようになった。』彼らの内側には、まだ見たことはないけれども、イエス様がもう一度来られることを期待して待ち望むほどの、革命的な変化が起こったということです。
 世の中でもてはやされている価値観は、いずれ廃(すた)れます。私たちは、そういった物事、事象に固執せず、たとえ見えなくても(さわれなくても)永遠に生きておられる方を信じ、その方に仕える者へと変えられました。イエス様が天から降ってこられるのを待つ者へと変えられました。


黙想のための問い
 ・偶像と接する人々を大目に見て済ましてしまうことはないだろうか。自分の中に神でないものを神とする(もしくはしていた)習慣は残っていないだろうか。
 ・今の状態の私の信仰が言い広められたら、周りの人々にどのような影響を与えるだろうか。