まず1章を振り返ります。
祈りの度ごとに思い起こされていたテサロニケ教会とそこに集っていた信徒たち。異邦人の国でしたが、彼らが救いに与るために、
1章4節、神から選ばれ、
5節、(上よりの)力、聖霊、そして確信がパウロたちを後押ししました。また御言葉を受け取るテサロニケの人々も、
6節、聖霊による喜びをもって受け入れ、
6節後半、わたしたち(パウロたち)に倣う者、主に倣う者となって、全ての信者の模範となりました。
パウロたちが彼らに福音を宣べ伝えたのは、
2章4節、「人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に 喜ばれるように」福音を語ったということでした。パウロたちの宣教の働きを支えるもの(人の側では動機)となります。(下線いずれも筆者)
これらの動機で宣べ伝えたのではないことを、3節のパウロの言葉から拾い上げてみましょう。
a.迷い(口語訳、新共同訳)(新改訳では、誤り)
さまよう… 自分たちもわからないままに伝えていた のではない。
b.汚れた心(口語訳) (新共同訳では不純な動機、新改訳では不純な心)
不潔… 不道徳から出たもの でもなく、
c.だましごと(口語訳、新改訳)
だます…策略や陥れるため でもありませんでした。
では何によって宣べ伝えていたでしょうか。
目的としては、神に喜ばれるように、自分たちに与えられた賜物を活かす、また自分たちに啓示された神の奥義を公にすることとなります。
4節、「神の信任を受けて、福音を託されている」ので、パウロたちはテサロニケにおいても、同じ熱量で福音を宣べ伝えたということです。(下線いずれも筆者)
近頃あまり聞かれなくなりましたが、パウロたちが宣べ伝えるにあたっての"大義名分"となります。パウロたちは、やましさなく胸を張って、もしくは誇りをもって、正々堂々と宣べ伝えていました。
それも、『人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける、神に喜ばれるように』福音を語りました。
人を喜ばせるため…
福音を手渡すためには、まず神と人と罪について語らなければならず、人を喜ばせたり気に入られるような内容ではありません。ですから自分たちは迫害に遭おうとも、神の御思い、御心だけは宣べ伝えなければ、というパウロたちの切迫した思いや気概が伝わってきます。
パウロ一行の宣教の動機に繋がるので、今回は口語訳では"見分ける"、"(神の)信任を受け"と訳された言葉(共に4節)に注目します。この2つは同じ原語です。
"見分ける"は、新共同訳では"吟味される"、新改訳では"お調べになる"、
"(神の)信任を受け"は、それぞれの訳で"認められ"と訳されました。
パウロ一行も"吟味されて、神の信任を受け"たわけです。それがよりどころとなり、各地で福音の宣教を推し進めました。
私たちが信じる神、天地を造られた神は吟味される神であられます。もちろんパウロたちは間違った動機から福音宣教したのではありません。(そんなことをすれば、見透かされてしまいます。) 見分ける神に喜ばれるように、恐れからではなくむしろ前向きに、真剣に、大胆に、犠牲を苦とも思わずに宣べ伝えました。
私たちはそうした使徒たちの情熱の積み重ねにより、福音が手渡され、救いに与りました。
黙想のための問い
私たちが救いに与るまでに捧げられた尊い犠牲を思い巡らしましょう。また心を見分けられる神の前に、どれだけ正直であったか、そうでなかったか思い巡らしてみましょう。