今回はテサロニケ第一2章5節から8節までを味わいます。

2:5 わたしたちは、あなたがたが知っているように、決してへつらいの言葉を用いたこともなく、口実を設けて、むさぼったこともない。それは、神があかしして下さる。
2:6 また、わたしたちは、キリストの使徒として重んじられることができたのであるが、あなたがたからにもせよ、ほかの人々からにもせよ、人間からの栄誉を求めることはしなかった。
2:7 むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。
2:8 このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。

 

 1節から4節に言われていたように、パウロたちは、「わたしたちの心を見分ける神に喜ばれる」ことをよりどころとして福音を宣べ伝えていました。 何があっても福音を語るということが、彼らにとって大前提であり、へつらうことなく、かすめ取ったり、むさぼることもなく、それを続けてきました。神がそのことの証人であられます。(5節)

 パウロたちは栄誉を求めることもありませんでした。キリストの使徒としての権威を主張することができたけれども(キリストの使徒として重んじられることができたけど)、それをしませんでした。(6節)


 7節の翻訳は苦労したことがうかがえます。まず読み比べてみましょう。

(口語訳)あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。
(新改訳)あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。
(新共同訳)あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、
(新改訳2017)あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分たちの子どもたちを養い育てる母親のようになりました。(下線いずれも筆者)
 比べると口語訳と新改訳は通りがよく、新共同訳と新改訳2017は幼子になったのか、母親となったのかわかりにくいですね。

 釈義的な話になって申し訳ありません。口語訳と新改訳では埋もれてしまいましたが、"幼子のように"と訳された言葉は新約聖書中10か所に14回用いられ、その全ての箇所で幼子もしくは子どもと訳されています。参考)マタイ21:16,ローマ2:20
 また第一コリント13章11節は1か所で5回使われています。

13:11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。(下線いずれも筆者)


 Ⅰテサロニケ2章は、パウロたちの宣教の動機が語られている文脈です。それらのことから考えると、高ぶりや自分の働きを正当化しようとしたのではなく、むしろテサロニケの人々を愛するゆえ、いとおしく思うゆえ、自分の命を与えても惜しくない(8節)、そのような思いで始められ、続けられた宣教だったということです。


黙想のための問い
 家族、親族、友人や知人が救いに与るために、どれほどの熱意をもって取り組んでいるだろうか。