2:8 このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。

 その愛はどのように現されたか、今回は9節から12節まで目を向けます。(13節まで引用してあります)


2:9 兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた
2:10 あなたがたもあかしし、神もあかしして下さるように、わたしたちはあなたがた信者の前で、信心深く、正しく、責められるところがないように、生活をしたのである。
2:11 そして、あなたがたも知っているとおり、父がその子に対してするように、あなたがたのひとりびとりに対して、
2:12 御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。
2:13 これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。(下線いずれも筆者)

 パウロ一行は、キリストの使徒として重んじられることができたのに(6節)そうせず、日夜働きながら神の福音を宣べ伝えました。
何のためでしょう。あなたがた(テサロニケ信徒たち)の誰にも負担をかけまいと思って、働きながら宣べ伝えるほうを選んだということです(9節)。

 パウロたちの生活ぶりは、テサロニケ信徒たちからも、神からもあかししてもらえる(10節)、そのような生き方でした。
 パウロたちは彼らの前で、
a.信心深く(新改訳、新共同訳では敬虔に)
 信仰的に、道徳的に正しいこと

b.正しく
 公平で正当。律法に基づいて対人関係が正しいこと

c.責められるところがないように
 非の打ちどころがないように、生活をしたということです。

 以上、改めて列挙すると何も隙がなく、あそびがないような…。とくにテサロニケで回心した人々の前では、そのように振る舞ったようです。きちんとし過ぎていて、そうでない者(傷やへこみがある者、ゆるく生きている者)にとって、息が詰まってしまう生き方に見えたかもしれません。
 けれども赦しを与え、魂を滅びから救い出し、神の子としてくださる方の前に、常に真剣だったのではないでしょうか。

 そこにはパウロたちの目的がありました。(11,12節)
その取り組み方
 父がその子に対してするように(11節)、神の前にどのようにあるべきか、その生き方を見せた。後ろ姿で彼らに手本や模範を示した。

その目的
 御国とその栄光とに召して下さった神の御心にかなって歩くように、勧め、励まし、また諭した。(12節)

 造り主、救い主に回心して、そこでゴールにたどり着いたのではなく、出発点に(遅れて)立つことが許されただけなので…、神の御心にかなって歩くように、勧め、励まし、また諭した。


 パウロの弟子訓練に対する姿勢を垣間見ることができます。
 7節では、母がその子供を育てるように
 11節では、父がその子に対してするように…

 パウロ本人が結婚したとは書かれていないので、子育ての経験はなかったと思われます。両親から身を献げるほど愛を注がれていたのかもしれません。 パウロは復活のイエス様に出会ってのち、正しく方向転換させられて、このような考え方や対応ができるように変えられたということも考えられます。
 パウロの胎の実であるテサロニケ教会の人々は、パウロたちの熱心かつ献身的な福音宣教によって、救いに与かることができました。パウロは自分が生み出したテサロニケの人々が、神の御心にかなって歩くように、ある時は母のように、ある時は父のように、勧め、励まし、また諭しました。


黙想のための問い
 私の生き方や後ろ姿は、キリストを証しできているだろうか。