今回はとくにテサロニケ第一2章14節を味わいます。
 パウロ一行が迫害に遭ったことが2章冒頭に記されていますので、振り返りましょう。

2:1 兄弟たちよ。あなたがた自身が知っているとおり、わたしたちがあなたがたの所にはいって行ったことは、むだではなかった。
2:2 それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。

そして今回の中心となる聖書箇所、13,14節。

2:13 これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。
2:14 兄弟たちよ。あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となった。すなわち、彼らがユダヤ人たちから苦しめられたと同じように、あなたがたもまた同国人から苦しめられた。

13節、「これらのことを考えて…」その状況下で感謝できること。
テサロニケ人たちが人間の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れてくれたこと。この神の言葉は信じるあなたがた、テサロニケ人たちのうちに働いていることを確信できたのでしょう。

14節、「あなたがたはユダヤのキリスト・イエスにある神の教会にならう者となった」(16節まで続けて読むと、神の怒りは迫害を繰り返すユダヤ人たちに下されることは明白です)
 ユダヤのキリスト・イエスにある神の教会とは、ざっくりと捉えて、元々ユダヤ教徒だったけれども、ナザレのイエスこそ救い主であると信じた者(順当にキリスト者と呼んでもいいと思いますが、改宗者であり、現代ではメシヤニック・ジュー)。

ですから彼らは、
・神の前における罪を認め(慣習に従い、認めていたとは思われますが、その解決を供え物によらず)
・イエス様の十字架による贖いを信仰で受け入れた。
 それらのことにより、罪を原因とする滅びからの救いに与った。神の子とされ、永遠の命まで約束していただき、その保証として聖霊なる神を内に宿す者としていただけた。そのユダヤ人キリスト者の信じる信仰に倣う者となった。

 テサロニケの人々が、「ユダヤのキリスト・イエスにある神の教会にならう者となった(14節)」ということは、信じる/信仰を持つ… これだけでも革命的な変化ですが、パウロ一行がユダヤ人たちから苦しめられたのと同じように、あなたがた(テサロニケ人たち)もまた、同国人(テサロニケ/ギリシャ人)から苦しめられる経験をしたということです。
 今回注目するのはこの部分です。信じたら患難や困難があるでしょう。またそれを避けては通れません。


以下に聖書箇所をいくつか引用します。

ルカ14:26,27
14:26 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
14:27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

マタイ24:9,13
24:9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

 私たちクリスチャンがイエス様を伝える時、罪による滅びからの救い、そのための十字架、信じる者に約束された永遠の命を中心に、御言葉による励まし、慰め、癒し等を伝えます。もちろん福音宣教の大切な要素ですが、患難や困難を伝えていなかったら、イエス様が宣べ伝えた半分も伝えていないということになります。なぜなら真剣に信じれば信じるほど、迫害に遭うからです。
 もし福音を受け入れようとする人々から、「イエス様は私の人生に必要ですが、苦しみと犠牲はこりごりです。」とか、「イエス様は私の人生を大きく方向転換してくださいましたが、この世を生き抜くためにはまだ他に欲しい物や必要なことがあります…」などと聞こえたならば、違和感を感じないでしょうか。

 クリスチャンになる(信仰を持つ)とは、自分自身に利益をもたらす選択肢の一つではなく、神の栄光が現されるという尊い目的のために、私に与えられているすべてで仕えますという決断です。


 戻って、テサロニケ第一2章13,14節
 テサロニケの人々は、パウロ一行の言葉を人間の言葉としてではなく(もっと景気のいい、心が弾むような話をしてくれとは頼まず)、神の言葉として受け入れ、同国人から苦しめられました。けれどもテサロニケの人々がそれを選び、また耐え忍びました。神の栄光が明らかに現されるためです。
 けれどもこの神の言葉は、信じるあなたがたのうちに(テサロニケの人々をはじめ、私たちのうちに)働いているので、それらの患難を耐え忍ぶ知恵や力をも与えることができるのです。

黙想のための問い
 イエス様に対する信仰を吟味していただけるように、今一度、御言葉に照らしていただきましょう。