1章から2章14節までをざっくりとまとめますと、
・パウロ一行は困難や迫害をものともせず、テサロニケ人たちに福音を伝えました。
・テサロニケ人たちが、マケドニヤ、アカヤならびに全ての信者の模範となったのは、伝えられた福音を神の言葉として受け入れ(1:6)、わたしたち(パウロ一行)と主とに倣う者となったと言われていましたが、
そのことはすでに2章14節、ユダヤのキリスト・イエスにある神の教会に倣う者となっていた、すなわち同国人から苦しめられていたから。
 それでも主と御言葉の約束を希望として立つその姿は、諸教会の模範となりました。


 今回はテサロニケ第一2章15,16節に注目します。

2:15 ユダヤ人たちは主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせず、すべての人に逆らい、
2:16 わたしたちが異邦人に救の言を語るのを妨げて、絶えず自分の罪を満たしている。そこで、神の怒りは最も激しく彼らに臨むに至ったのである。

 2章15,16節を読むと(もしくはここだけ取り上げると)どのような印象を持つでしょうか。
 まずここに記されたユダヤ人とは、当時のユダヤ教徒。ナザレのイエスをメシヤと認めなかった者たち。
 彼らは心が頑なで、神の御思いに背き、自分たちこそ正しいとしたその振る舞いは、神を悲しませていたため、神の怒りは最も激しく彼らに臨むに至った…。
 これだけやれば、ある意味当然だろうとか…、いくつか見方や受け止め方があると思います。

 十字架刑に至るまでの場面を思い巡らせると歯がゆい思いもあります。
 イエス様は、不当に逮捕されたのち裁判にかけられ、言い渡された刑は即日執行され、十字架の上で死なれました。
 十字架の出来事を神の視点で見直すと、イエス様は神の怒りを宥(なだ)める、傷のない完全な供え物として、十字架にかかってくださった。打たれた肉、流された血潮、イエス様が捧げられた命によって、罪ある私たちは贖われました(代金が支払われイエス様のものとされました)。
 確かにユダヤ人たちは頑なでしたが、頑なな彼らが用いられることにより、救いは実現成就しました。


 聖書が明らかにする罪、私たち人間が抱えている罪とは、神に対する罪であり、絶対的な罪を指し示しています。
 私たち自身も含め身の回りでは、他の者と比べて、「私はまだいいほうじゃないかとか、私はそんなに悪くない」という、相対的な罪についてよく聞きます。聖書が指し示しているのは、その類のものではありません。
 私たち罪ある全人類が、どなたに対して背を向けていたか(的を外していたか)、もしくは悲しませる方を選んでいたかという、絶対的な罪について、聖書は鋭く切り込んでいます。

 ですから神の怒りは、(迫害して不信仰だった)ユダヤ人たちに下ってよかったではなく、罪によって神に背を向けていた私たちに下されるはずだった神の怒りを、イエス様がおひとりで受けられたことを思い巡らしましょう。


 神であられたイエス様は救いを成し遂げるために、人となってこの地上に生まれてくださいました。

 詩篇136篇22節から引用します。
(クリスマス直前で、その年最後の水曜集会だったので、詩篇を引用しました)
136:22 そのしもべイスラエルに嗣業としてこれを与えられた者に感謝せよ、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
136:23 われらが卑しかった時に われらをみこころにとめられた者に感謝せよ、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
136:24 われらのあだからわれらを助け出された者に感謝せよ、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。(下線筆者)

黙想のための問い
 私たちたちが求める前から成し遂げられていた救いのわざ、イエス様の十字架を思い巡らしましょう。