テサロニケ第一 2章17-20節を味わいます。

これまでのあらすじ
・パウロ一行は、困難や迫害をものともせず、テサロニケの人々に福音を伝えました。
・テサロニケの人々が、マケドニヤ、アカヤそして全ての信者たちの模範となったのは、伝えられた福音を神の言葉として受け入れ、(1章6節)わたしたちと主とに倣う者となった、と言われていましたが、詳しく見ていくと、2章14節、ユダヤのキリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となった。
 すなわち、同国人から苦しめられた。それでも主と御言葉の約束、希望に立ったので、その信仰における後ろ姿は諸教会の模範となった。
 2章15,16節には、神の怒りは最も激しく彼ら=(迫害し、神に逆らい続ける)ユダヤ人たちへ下ることになったと記されています。


2:17 兄弟たちよ。わたしたちは、しばらくの間、あなたがたから引き離されていたので――心においてではなく、からだだけではあるが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切にこいねがった。
2:18 だから、わたしたちは、あなたがたの所に行こうとした。ことに、このパウロは、一再ならず行こうとしたのである。それだのに、わたしたちはサタンに妨げられた。(下線筆者)

 パウロたちは、ユダヤ人たちによりテサロニケを追われましたから、テサロニケ教会と引き離されてたのは事実です。以下に、使徒17:13以降を引用します。

17:13 テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神の言を伝えていることを知り、そこにも押しかけてきて、群衆を煽動して騒がせた。
17:14 そこで、兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して、海べまで行かせ、シラスとテモテとはベレヤに居残った。
17:15 パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行き、テモテとシラスとになるべく早く来るようにとのパウロの伝言を受けて、帰った。

 その最大の要因は、テサロニケ第一2章18節後半によるとサタンに妨げられたことによります。
サタン(悪魔)… 敵対者や訴える者。人に疑いを持たせ、神から遠ざからせるためあらゆる手段を用いる。

 17節、パウロ(一行)から見て、しばらくの間、あなたがた(テサロニケ教会の人々)から引き離されていた。
 かつてはそういう時もあったが、今はそうではないという意味を含ませた言い方です。
 パウロたちはテサロニケの人々と、物理的に離されてしまいましたが、心においては同じ主に対する信仰を持ち、主の御言葉を聞き、主が双方の間を取り持ってくださることに期待しており、心においては離れている感覚はなく、むしろ互いに近かったのではないでしょうか。


17節後半、あなたがたの顔が見たい…、
18節前半、あなたがたの所に行こうとした…、一再ならず行こうとした。
 これらの言葉から、パウロたちの切実な思いを感じ取ることができると思います。3章の展開を先取りしますと、パウロは側近のテモテを送ってテサロニケ教会の様子を聞かせています。のちにテモテから知らせを受け、主にあって同じ信仰を持ち続けていることを確信できました。
 ですから、かつては不安や心配にさらされることもあったが、今は主にあってそうではない。主に対する信仰と希望がお互いの支えとなり、困難を乗り切ることができた好例となりました。


 今回、もう一か所注目したいのは、

2:19 実際、わたしたちの主イエスの来臨にあたって、わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、あなたがたを外にして、だれがあるだろうか。
2:20 あなたがたこそ、実にわたしたちのほまれであり、喜びである。(下線筆者)

 19節、『わたしたちの主の来臨にあたって…』、とさりげなくイエス様の再臨に触れていることです。
 来臨とは、来る、近づくという意味で、国王や国の高官が土地を訪れる時に使われる言葉です。イエス様が王の王として来られることに触れています。聞く人が聞けば、緊張をもたらします。他と比べることができない王の王が来られる、つまり正しい緊張感を持ちながら、終わりの時に備えさせるような言葉です。

 あなたがた(テサロニケの人々)は、わたしたちの望みであって、喜び、誇りの冠である。表に出しても恥ずかしくないばかりか、かえって望みと喜び、冠である。その緊張感を持ち続けて信仰に生きているから。『あなたがたを外にして、だれがあるだろうか。』そのようにパウロから賞賛されたテサロニケの人々の信仰、主にある生き方に倣う者でありたいと思います。


黙想のための問い
 イエス様が来られる時、表に出されても恥ずかしくない歩み、生き方、信じ方をしているだろうか。