テサロニケ第一3章1-5節を味わいます。

これまでのあらすじ(1,2章もお読みください)

 迫害に遭い、追い出されるようにテサロニケを後にしたパウロ一行。2章17節によると彼らは、「引き離された、サタンに妨げられた」と受け止めています。


3:1 そこで、わたしたちはこれ以上耐えられなくなって、わたしたちだけがアテネに留まることに定め、
3:2 わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテをつかわした。それは、あなたがたの信仰を強め、
3:3 このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められているのである。
3:4 そして、あなたがたの所にいたとき、わたしたちがやがて患難に会うことをあらかじめ言っておいたが、あなたがたの知っているように、今そのとおりになったのである。
3:5 そこで、わたしはこれ以上耐えられなくなって、もしや「試みる者」があなたがたを試み、そのためにわたしたちの労苦がむだになりはしないかと気づかって、あなたがたの信仰を知るために、彼をつかわしたのである。(下線いずれも筆者)


 もう一度、3章1節、「そこで、わたしたちはこれ以上耐えられなくなって」
 このことは興味深い事実として受け止めたいと思います。パウロのような人物であっても、"耐えられない、忍耐や辛抱が続かなくなる"そのようなこともあったんだ…。 元をただせば、私たちは全てちりから造られたもので、脆(もろ)く、儚(はかな)い存在です。イエス様を救い主と信じた途端、何が起こっても平気になるわけではありません。著者パウロもそのことを経験したわけです。経験者が語ることこそ、現実味を帯びた証言となります。


 そこでパウロ一行の取った行動とは…、
 「わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテ(2節)」を遣わしました。(詳しく見ると、これまでずっと使われていた二人称複数"わたしたち"の中にパウロ、シルワノ、テモテの連名で始められていたので(参照:1章1節)、2人が残った等、見方はいろいろあると思います)

・テモテをつかわした その理由、目的
 「あなたがたの信仰を強め、患難の中にあっても動揺する者がひとりもないように励ますため(2,3節)」でした。

 この"励ます(動詞)"は、ヨハネ14章26節で"もうひとりの助け主(名詞)"、つまり聖霊に用いられたものと同じ語幹を持ちます。5節後半、「あなたがたの信仰を知るために」、彼らの傍らにテモテを遣わしました。


 もう一つ重大な事実をお知らせします。
 「わたしたちは患難に会うように定められているのである。」
 この時の"わたしたち"は、イエスをキリスト(メシヤ=救い主)と信じた者、広く信仰者と受け止めていいと思います。パウロ曰く、そのことはあらかじめ言っておいたし、それが今現実のものとして起こったに過ぎない、このような言い方です。


 5節、「『試みる者』(2章18節に記された、パウロ一行を妨げたサタン)が試み」、わたしたちの労苦が無駄になりはしないか、マケドニヤ、アカヤならびに全ての信者の模範とまでなったテサロニケの人々がつまずいたり、棄教したりししてしまうことはないだろうか…、同労者テモテを遣わしたのは、ここまで考えたうえのことでした。

 


 「これ以上耐えられないことは起こるし、患難に会うように定められている」、だったら信じない方がいいじゃないか…と考える方も少なくはないと思います。 しかしそれらを避けるために信じるのではありません。

 では、耐えられないことが起こるし、患難に会うように定められているのは、何のためであるか考えてみましょう。

 私たちが信仰を持ち続けるにあたって、なるべく経験したくない場面に出くわすことがあります。神が目的をもって信仰者に与える(体験させる)出来事は試練と呼ばれ、試みる者(サタン)が信仰者を神から引き離す目的をもって与える出来事は誘惑と考えられます。
 試練はそれを通してより一層、神と神のなされるわざにより頼むことに繋がり、誘惑はそれにより希望を見出すことができなくなり、信仰者を神から遠く離れさせてしまう。


 神が与える試練は、金属にたとえるなら精錬のようなことで、真の信仰者、礼拝者を生み、育て上げるには有意義で不可欠なものです。

 パウロにも弱さがありました。しかしこれらを経験したからこそ、ローマ人への手紙5章の言葉を記すことができたのではないでしょうか。(なお聖書は執筆年代順で収められていません)

5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
5:2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

 実際に経験し、乗り越えた人の言葉は強くて、信頼に値します。

 

黙想のための問い
 なるべく経験したくない場面に出くわしたとき、私たちはどのように祈るべきだろうか。