今回は、テサロニケ第一3章6-10節を味わいます。
これまでのあらすじ
パウロ一行はテサロニケの人々の様子を窺わせるため、キリストの福音における神の同労者、一番弟子のテモテを遣わしました。テモテが持ち帰った吉報を受け、慰めを与えられました。
3:6 ところが今テモテが、あなたがたの所からわたしたちのもとに帰ってきて、あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつもわたしたちのことを覚え、わたしたちがあなたがたに会いたく思っていると同じように、わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもたらした。
3:7 兄弟たちよ。それによって、わたしたちはあらゆる苦難と患難との中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた。
3:8 なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである。(下線筆者)
報告によると、
6節、あたながた(テサロニケの人々)の信仰と愛について、
パウロたちが彼らに会いたいと思っているように、彼らもしきりに会いたがっているということ。これは、パウロたちの一方的な思いだけではなく、相思相愛ですれ違いに終わることがありませんでした。
8節、あなたがたが主にあって、
堅く立っているなら(口語訳、新改訳)
しっかりと結ばれているなら(新共同訳)
わたしたちは、いま生きることになる(口語訳)
私たちの心は生き返る(新改訳2017)
わたしたちは生きている(新共同訳) (下線いずれも筆者)
主にある兄弟姉妹の生き方、信仰に立つ姿が、同じく信仰を持つ者を励まし、生かし、また生き返らせます。
パウロが幼子のように、母のように、父のようにして(2章7,11節参照)、彼らに命を差し出して、仕えてきた実が着実に結ばれたことを、テモテの報告によって聞き、実感することができました。
マタイによる福音書7章12節にイエス様が教えられた黄金律、ゴールデンルールがありますので引用してみましょう。
7:12 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
『何事でも』…とは、身勝手で、自分中心から来る思いからは到底出てこないでしょう。主の栄光が現される、信仰による行いです。
パウロは、その結ばれた実を思い巡らし、テサロニケ第一3章9,10節、
3:9 ほんとうに、わたしたちの神のみまえで、あなたがたのことで喜ぶ大きな喜びのために、どんな感謝を神にささげたらよいだろうか。
3:10 わたしたちは、あなたがたの顔を見、あなたがたの信仰の足りないところを補いたいと、日夜しきりに願っているのである。(下線筆者)
9節、どんな感謝を神にささげたらよいだろうか…、感謝してもしきらないほど、大きな喜びを得ました。
10節は少し気になる言い回しですが、決して上から目線で、まだ物足りないことがあると指摘しているのではないでしょう。
他の翻訳を参考にしてみましょう。
新共同訳では、「顔を合わせて~信仰で必要なものを補いたい」
新改訳2017では、「顔を見て~信仰で不足しているものを補いたい」(下線いずれも筆者)
テサロニケの人々が救いの完成にたどり着けるように、その役を自分たちに手伝わせてほしいと申し出ているようです。自分たちはあなたがたの踏み台となる決心がある、そのような言い方をしています。
黙想のための問い
信仰者としての私の後ろ姿は、人を励まし、生かし、生き返らせるものだろうか。他の人の信仰のために、どれだけ自分をささげているだろうか。