今回は、主にテサロニケ第一 3章11-13節を味わいます。

 これまでをあらすじで振り返ると、2章17節、『顔を見ないだけで、心が離されていたわけではない(新共同訳)』状態でしたが、テサロニケ人たちから引き離されていたパウロ一行。

 それでも、①物理的距離に影響を受けることなく、②信仰においては、③同じ一人の主を仰ぎ見ていました。
 パウロたちは神の同労者テモテを遣わし、テサロニケ教会の活発な現状を知ることができました。

 3章1節、これ以上耐えられず(口語訳)
      もはや耐えられなくなり(新改訳)
      もはや我慢できず(新共同訳)
 居ても立っても居られない状況になりましたが、テモテからテサロニケの様子を聞いて、3章9節、どんな感謝をささげたらよいか、それまでの経緯もあって、押さえつけられていた分、感情が弾けるようです。
 また10節、『あなたがたの顔を見(たいけれども)、あなたがたの信仰の足りないところを補いたい』と記しました。

 

 今回は、テサロニケ第一 3章11-13節で祈り願ったこと、大きく三つの内容に注目しようと思います。

3:11 どうか、わたしたちの父なる神ご自身と、わたしたちの主イエスとが、あなたがたのところへ行く道を、わたしたちに開いて下さるように
3:12 どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように
3:13 そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。(下線、強調共に筆者)


 ・そちらへ行く道を開いて下さるように
 ・あなたがた(テサロニケの人々)相互の愛と、(テサロニケの人々から)すべての人に対する愛を増し加えて、豊かにして下さるように
 ・あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように

 信仰の不足を補うというよりも、信仰並びに救いの完成に近づけるための前向きな奨励として受け止めることができると思います。(パウロたちを踏み台にして構わない。むしろそうして欲しい、と言わんばかりです。)

 またこれらのことは、
13節、「わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時」つまり"終わりの時"を想定して語られている。

 再臨… 天に昇られたイエス様が再び来られること。それはいつのことであるか、イエス様であっても教えられていない(参照:マタイ24:36、マルコ13:32)。
 その再臨に備えていられるよう、(テサロニケの人々に手ほどきするため)道が開かれ、愛の実践がなされ、責められることのない者としていただけるようにと、とりなして祈りました。

 またこれらのことを祈るにあたって、どなたに期待したらよいか、とても大切です。(すべてにおいて父なる神と主がなさってくださるように祈っています)
 たとえ今おかれている現状に、
 ・耐えられなくなっても
 ・我慢できなくても
 主が成し遂げられることに確信をもって祈ることがどれだけ重要であるか、有益であるか、御言葉は教えています。

 

黙想のための問い
 私たちの日々の祈り、その内容について振り返ってみましょう。