テサロニケ人への手紙第一4章からは、信仰者としての歩みについて、"神に喜んでいただけるようにはどのように歩むべきか…"等、「主イエスにあって(口語訳、新改訳)」、「主イエスに結ばれた者として(新共同訳)」パウロたちが勧めています。

4:1 最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。
4:2 わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。
4:3 神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、
4:4 各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、
4:5 神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、
4:6 また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。
4:7 神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。
4:8 こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。(下線筆者)

 これまで読んで確認してきたように、テサロニケ教会の人々は、本当に素直に聞き、受け入れていたようです。
 使徒の働き17章によると、3回の安息日にわたる説明と論証ということでしたから、彼らは平日、昼夜問わず、積極的にパウロたちが宣べ伝える福音の説き明かしを求めたのかもしれません。

 その説明と論証の中で、4章2節、主イエスによってどういう教えを与えたか、あなたがたはよく知っているであろう、そのはずだ…。
 大体この部分までが前置き、前提となり、
3節、「神のみこころはあなたがたが清くなること」大事なことを伝えます。

以下、3つの分野ですすめ(勧め)ています。
(とくに不品行から離れることについて、警告という言葉が使われています。)

・不品行 3~8節
・兄弟愛 9~12節
・主の再臨(義人の復活と携挙) 13~17節(5章前半にも続けられます)

 今回は、不品行を慎みからだを清く保つための警告を受けとめましょう。


 時代や土地柄も大いに関係してくることでしょう。(以前はひどかったと過去のこととして軽視しているのではありません。かえって私たちが暮らす現代は、より深刻にこれらのことを受け止め直さなければなりません。)
 ローマ帝国のギリシャ地方…、性が売り物になっていました。(かつて神殿にも男娼、娼婦がいたことを考えると、つける薬がない…!?)
 見方を変えてみましょう。罪はいかなる罪でもよくありません。(罪の種類、大小、続けていた期間等、比べても仕方がないこと)

 性の乱れについて、造り主なる神は本当に喜ばれない。むしろお怒りになられる!

 罪… 元の意味に"的を外す"があります。はじめの男女に罪が入り込んだことにより、生きる目的、与えられた意味から大きく離れてしまいました。

 神は、結婚に基づく男女関係、ですから夫妻に、男女の性の交わり/セックスを賜わり物(ギフト)として与えられました。 けれども、人々、ならびに世は自由に用いた。(5節、情欲を欲しいままに)

用語の解説を少々…
 姦淫 結婚外の性関係、婚前交渉も含まれる
 不品行 (ギリシャ語はポルノの語源)売り買いが発生する性交渉。(たとえ独身であっても。合意があっても。)
 ※どちらもよくないこと。

なぜ神はそれほど怒られるのでしょうか。
 聖書において、花婿なるキリストと花嫁なる教会との結びつきを、結婚に準(なぞら)えて語られています。他に交わる者、間に入る者があってはならないのです。
 そこが乱れるから、6節、兄弟を踏みつけることにもだますことにもつながるのです。(たとえ本人たちは気をつけており、やましいことがなく、平気にしていても、2人きりでいるのを見る人はどう受け止めるだろうか、そこを気をつけなければならない)
 これらの警告を拒む者は、聖霊を賜る神を拒むのである!


 新共同訳では4章1節を、「パウロたちは、主イエスに結ばれた者として、願い勧めた。」と訳しました。 信仰はあるし、思いや心は結ばれているはずなのに、残念ながら神に喜ばれないほうを選んで歩む者が少なくない。
 3節、慎んで、4節、気をつけて、からだを清く尊く保つことがいかに重要であるか、思い知らされます。もちろん誘惑したり、誘惑されることから避ける生き方も大切です。私たちの努力の積み重ねだけで解決しようとせず、迷わず助け主なる聖霊の導きを求めましょう。


黙想のための問い
 神の基準とこの世の基準は、いかにかけ離れているか思い巡らしてみましょう。また私たちはそのところから取り分けられていることについても思い巡らしましょう。