テサロニケ人への手紙第一4章1節から8節まで、とくに7,8節を中心に味わいます。


4:1 最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。
4:2 わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。
4:3 神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、
4:4 各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、
4:5 神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、
4:6 また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。
4:7 神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。
4:8 こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。(下線いずれも筆者)


 パウロ(一行)がテサロニケの人々に願うこと…、
 4章1節、あなたがたが どのように歩いて 神を喜ばすべきか、どのように歩むべきか(新改訳、新共同訳)これが今回のテーマとなります。
 テサロニケの人々は、信仰の歩みについてパウロたちから学んだようで、1節後半、いま歩いているとおりにますます歩き続けなさい(口語訳)、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。(新共同訳)と背中を押されているようです。


前回の振り返り
 不品行を慎むこと(口語訳)淫らな行いを避ける(新改訳、新共同訳)
性の乱れに対する警告が与えられました。婚姻外や婚前の性行為、セックスについて。たとえ独身であっても。売り買いが伴うならなおさらのこと。
 「生めよ、増えよ、地に満ちよ」創造主は人類に賜物として与えられました。より具体的に言えば創造主なる神を礼拝する者(その家族)が増え、地上に満ち溢れることを望まれた言葉でした。 ところが、人に罪が入り込み(罪に支配されて)、自分の心の赴くままに快楽を求めるようになった。
 なぜ神は結婚によらない行為を喜ばれず、むしろ怒られるのだろうか。
結婚とは、キリストと教会の結びつきになぞらえられ、定められているから。


 さて7節、神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるため(口語訳)、聖さに与らせるため(新改訳)、聖い生活をさせるため(新共同訳)です。
 勘違いしてはならないのは、神は人々に禁欲させようとしているのではありません。そもそも性の交わりは結婚した男女に賜物として与えられているからです。ルールに則り、神に喜ばれるかたちで行うなら、祝福につながります。
 罪の語源に的を外すという意味が含まれます。自分の欲を満たすために、本来の目的から離れ、造り主が与えたルールから逸脱するから、汚れが増していくのです。


 神の聖さに与る、きよくなる、聖い生活をする。
 造り主なる神は、信じる私たちが神の聖さに与ることを望んでおられるし、パウロ先生もそのように言われるから、自分を律してきよくなろう…、果たしてそれでうまく到達できるだろうか。甚だ疑問が残ります。
 レビ記19章2節で、「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」と言われました。(Ⅰペテロ1章16節でも取り上げられましたが)、私たちがあらゆる悪、危険、誘惑を避け、遠ざかり、近づかないように心がけることは、とても大切な選択です。しかし即席でできることではありません。

 

 神の聖をイエス様の十字架を中心にもう一度考えてみましょう。
 私たちが意識しようとしまいと、全ての人間は最初の男女の犯した罪を引きずっています。 イエス様はその全ての罪を背負って十字架にかかられたことを認めなければ救われることはありません。イエス様の打たれた傷、流された血は罪を犯した私たちが受けるべき罰だと信じた時、初めて罪赦され、神の子とされ、永遠の命まで約束され、その保証として、聖霊が信じる私たちの内に住んでくださいます。

 私たちは神を宿す者となった(させられた)。私たちの生涯が神の聖さを現わすどころか、かえって証しにならないとか、周りの人をつまずかせるようなことがあってはなりません。

 パウロの警告はこのためであり、
 8節、それを拒む者は、人(パウロたち)を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのであると言いました。

 であるならば、どうすればいいでしょう。もちろん自分の知恵や努力ではなし得ません。『人にはできない事も、神にはできる(ルカ18章27節)』
 たとえ救われていても、繰り返し罪を犯します。性質として罪が残っているからです。きよめの経験を(何となく)しても、普段の生活において、神中心でない時間帯もないわけではない。

 神の聖さに与るためには、何度でもイエス様の十字架に立ち返ること。私は汚れていたが、イエス様の血潮できよめられた。この方が身代わりとなってくださった。これが私たちの証の日々です。


黙想のための問い
 私たちは神のきよさと全く相容れない罪の中に生きてましたが、
ご自身のきよさに与らせるために召し出されました。御心を思い巡らしましょう。