テサロニケ人への手紙第一4章1-12節まで、とくに9-12節を味わいます。


4:1 最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。
4:2 わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。
4:3 神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、
4:4 各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、
4:5 神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、
4:6 また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。
4:7 神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。
4:8 こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。
4:9 兄弟愛については、今さら書きおくる必要はない。あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており、
4:10 また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しかし、兄弟たちよ。あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい。
4:11 そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。
4:12 そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。

 パウロ一行が主イエスにあって、テサロニケの兄弟たちに願いかつ、勧めたこと。
 ・不品行を慎み、神の召しに応じ、きよくなること
 ・兄弟愛の実践(すでにしているが、ますますそうしてほしい)
 ・主の再臨(再び来られること)について、無関心であってはならない


 今回は、兄弟愛について考えます。
 過ぎた主日礼拝において、過越しの祭りの前の二階座敷で、イエス様が弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言われた記事を読み味わいました。(ヨハネの福音書13:34,35)
 曰く、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることをすべての者が認めるであろう」イエス様は(裏切るために一人抜けた)弟子たちにそうあるように新しい戒めを命じられました。

 直接聞いた弟子たちもすぐに実践できたかというと…、それまでにある程度時間を要したと思われますし、使徒行伝を参照すると、

6:1 そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。

 弟子たちの弟子の間に、食事のことで騒動が起こりました。
もちろんテサロニケの人々に伝えたのはパウロ(一行)で、当のパウロは過越しの食事をした二階座敷にはいませんでした。
 パウロはイエス様から直接語りかけられた人物であり、旧約聖書が指し示していたメシヤが、ナザレのイエスであることを、パズルの最後の一つのピースがはまるように、霊的に理解したようです。
 パウロは主と出会った後、すぐに宣教を始めましたが、他の弟子たちと過ごす中で兄弟愛の実践についても早い段階で合点がいったことでしょう。


 パウロがそうであったように、神に直接教えられたテサロニケ人たちマケドニア全土の兄弟たちに対して実行している(全体の模範)
 それを命じられたイエス様と同じ目線に立てているので、言うことない →それでいいのか…というと、
 兄弟愛… 伸びしろがあることを理解しておきたいと思います。
 ますますそうして欲しい 栄光から栄光へと主と同じ姿に

11節、~つとめて落ち着いた生活をなし
 この言い方は次回にも関係しており、時代は終わりに向かいますが、たとえその前兆を見出したとしても、急に仕事を離れたり、学校に通うのをやめたりせずに、(わかっていても)落ち着いた生活をするようにと、勧めました。

 それは12節、外部の人々(まだ集まりに参加しない方、信じてない方)に対して、品位を保つことになる。
 この品位はギリシャ語で、上品に礼儀正しくという意味を持ち、慌てふためくことなく、冷静に、熱狂的にならず、と受け止めることができ、12節後半は、新改訳と口語訳では、だれの世話にもならず、新共同訳では、だれにも迷惑をかけず 生活できるであろう、と翻訳されました。


黙想のための問い
 ここに記された”だれにも”とは、どのような人々を指しているか、どうすれば世話になることなく、互いに愛し合えるのか、御言葉から思い巡らしましょう。